階段を上がり、駅を出ると一気にオフィス街が広がる。ここも土曜の今日はいつもとは違った顔をしている。道を走る車の量も普段の半分もない。相変わらず車の排ガスが鼻孔を突いてくるが、それもいつもとは少しだけ違って甘く感じるのだった。
 会社に向いながら耕作は、心の中に凝り固まっていた怒りが徐々に溶け出していくのを感じていた。
 会社に着くとドアを開ける前に警備会社に電話を入れる。以前、カード・キーを差し込んだけでドアを開けて仕事をしていると警備会社から電話が掛かってきた。最悪の場合は警察に連絡されることもあるらしい。
 電話に出た警備会社の社員は耕作に「ご苦労さん」と声を掛けてきた。耕作も電話で同じことを相手に言った。休日に働いている者だけが共感できる、お互いを思いやる優しい気持ちが電話線を通じて行き来した。耕作の気持ちは完全に普段と変わらない穏やかさを取り戻していた。
          
 土曜日の当番は三人で行う。急な配達の注文があった場合、その中の一人が車で現場に商品を配達する。残った二人は引き続き電話を取るということになっていた。しかし、土曜日は配達まで要求してくる業者もいなかったし、電話と言ってもそうそう頻繁に掛かってくる事もなかった。雑談をしていれば何となく一日の業務が終わってしまうことの方が多かった。
 その日の当番は偶然にも耕作が一番年上だった。年功序列を重んじる企業において、一番年嵩という事実は重要である。雑用は全て後輩がするし、昼食の買い出しも後輩に行かせればよかった。
 普段なら耕作にあれやこれやと命令をする上司が一杯いるが、今日は耕作が命令をする上司の役を演じることができる。とは言っても耕作自身、まだまだ若く、他の二人もそれよりは若干年が下るという程度なのである。       
 土曜日の仕事は電話が掛かってきて始めて仕事が始まる。結局、その日のスタートは十時を少し回った頃から始まった。そして、午前中の仕事は最初の電話を含めて三本だけだった。
 天気の良い休日に事務所にいる、というのは手当てが出るとは言っても息が詰まる。耕作は昼前に二人の後輩を事務所に残して昼食を買い出しにコンビニに向かった。本当なら後輩に命じればよかったが、先輩としていいところを見せようと思ったのだ。
 二人の後輩は独身寮から通っているから当然弁当なんて持っていない。そこで耕作は三人分の昼食を買ってやろうと奮発する気になったのだ。
 会社の玄関を一歩出た途端、太陽の光が耕作の瞳を容赦なく刺してきた。耕作は休日出勤に出掛けたことを後悔し始めたが、そんな気持ちをふっ切るために大股で元気よく歩き始めた。
 街路樹が、いつもより少ない排気ガスで生き生きと輝いているようだった。耕作の気持ちも晴れ上がった空と同じように晴れ晴れとしていた。
       
 コンビニまでは五分も歩けば着く。
 休日弁当などと目立つステッカーの貼ってある忌ま忌ましい弁当を眺め、その中からハイカラトンカツ弁当を三人分籠に入れた。
 レジを済ませた耕作はコンビニの外にある公衆電話から子どもに電話をすることを思い付き、財布の中からテレホンカードを取り出した。
 公衆電話の所に行くと何人かの若者がその回りで直接コンクリートの上に座って話し込んでいた。あきらかに電話をしようとする耕作にとって彼等の存在は邪魔だった。
 彼等の声は大きく、通話の妨げになりそうだった。何より、電話の回りに散乱した彼等が食い散らかした後にできたゴミは不愉快そのものであった。
 そんな彼等を無視して耕作は家に電話をした。
 電話に出た美智子に耕作は電話を掛けた理由を手短に告げ、子ども達に代わってもらった。
「パパお仕事がんばれぇ」
 おねえちゃんの声はいつ聞いても元気が出て来る。
「いつ帰るの」
 妹のあどけない声を聞くと直ぐにでも帰りたくなってくる。
 子ども達と話していると電話の回りにタムロしていた連中の存在は一瞬にして意識から消えていた。
 ところが、彼等の中の一人が放った言葉で耕作の意識に彼等の存在が再び大きく写り始めた。
「パパだってよ。おっさんデレッとするんじゃないよ」
 声の方を向き、耕作はその中の一人に見当を付けてにらみ付けた。
「おっさんがにらんでるぜ」
「パパ怒っちゃ怖い」
 怒りで目の前が白くなり始めた耕作は電話を切り、その場を離れた。もし、耕作に腕力と度胸があれば社会人としての常識もかなぐり捨てて連中に飛び掛かっていただろう。だが、残念な事にそのどちらも耕作は持ち合わせてはいなかった。
 幼い頃から気の弱かった耕作は喧嘩なんて一度もしたことがなかった。口喧嘩さえも記憶にはなかった。小学生の頃は女の子にさえ一方的に泣かされて何度も家に帰ったものだった。小学校の時から、そういった意味で男の子は耕作を相手にしなくなっていた。
 中学生になり、自分の弱さに気付いた耕作は通信教育で空手を学んだ。頭の中では、逞しく成長した耕作が何人もの不良をやっつけて女の子を救い出すシーンを想像していた。だが、それは想像の域からは決して出ることはなかった。
 通信教育の教材本は一週間もしないうちに本棚に埃を被ったままで積まれていた。

 耕作の後ろから尚も耕作をバカにする声が聞こえてきた。
 コンビニの袋を掴む耕作の手は怒りで震えていた。
 朝、通勤電車の中で会った連中といい、今コンビニで会った連中といいまったく不愉快極まりなかった。
 もし、耕作にジェームズボンドのように殺しの許可証とピストルがあれば、間違いなく彼等を血祭りにあげていただろう。
 耕作は頭の中で彼等を順番に射殺していくシーンを思い描いていた。奴等は口先だけの連中で耕作が黙って構えたピストルの前で泣きわめき、土下座して耕作に許しを請うのだった。彼等のズボンの前は恐ろしさのあまり漏らしたオシッコで濡れていた。そんな不ざまな彼等を耕作はあくまでニヒルに、そして冷酷に殺して行くのだった。特に電車の中で見た地上最低のバカ女には山盛りの里芋の煮っころがしを食べさせて、口の中一杯に里芋が詰まったところでピストルの引き金を引くのだった。
 そんな空想を続けていると、耕作の胸の中はスッキリとしてくるのだった。
 会社に戻った頃にはコンビニでの怒りは既に消えようとしていた。
「ジャーン」
 気持ちを切り替えて、耕作は少しおどけて事務所のドアを開けた。両手に持ったコンビニの袋を顔の前に持ち、後輩の目に入るようにした。コンビニの袋を見れば後輩たちも耕作が彼等の分まで昼食を買ってきたことがわかるだろう。少しおどけることで、後輩に無駄な気を使わせまいと思ったのだった。
「お昼だよ〜ん」
 目の前にぶら下げた袋を下ろして事務所中を見渡した。そこには、耕作の手にしたコンビニの袋を見て歓喜の余り涙を流して喜んでいる後輩の姿はなかった。
 人っ子一人いない閑散とした事務所。耕作はコンビニの袋を抱えたまま呆然と立ち尽くしていた。
 トイレかな、と思った。しかし、いい大人が二人で一緒にトイレに行くのもおかしい話だ。
「お〜い三宅、進藤」
 耕作は二人の名前を呼んだ。
 休日の事務所はまったく静かで、耕作の呼び掛けに答える声はなかった。
 怪訝な表情のまま自分の机に戻った耕作は汚い字で書かれた一枚のメモを見付けた。
 彼等のどちらかが書いたものに違いなかった。それにしても汚い字である。卑しくも、先輩に伝言するならもっとマシな字で書くべきである。耕作は彼等の無神経さに腹が立ってきた。
『二人で昼飯に行きます。得意先からTEL有り、昼食後現場に行きます。帰りは直接帰ります』
 箇条書きにしたメモを見ているうちに耕作の怒りは完全に爆発した。
 「ばか野郎」と言って耕作は机を蹴っ飛ばした。静かな事務所に机を蹴る大きな音がした。その音に大きさに我に帰った耕作が机を見ると机は傷一つ付いていなかった。しょせん、耕作の力では机一つ傷付けることができないのだった。
 三人で一緒に働いていたのに耕作に黙って昼食に出て行く神経が理解できなかった。確かに、黙って出て行った耕作にも少しの非はあるが、黙って三人分の昼食を買って帰って後輩を喜ばそうとしたのだ。やっぱり、二人に言ってから行くべきであったのだろうか。しかし、言えば後輩は気を利かせて自分達が行くというだろう。それを敢えて自分が行くと言えば嫌味にしか聞こえないだろう。
 耕作の行為は後輩のためにしたのだった。それにメモに書いてある得意先とは何処の得意先なのだ。行き先も告げずに勝手に上司である耕作の許可も得ないで行くとは非常識ではないか。二人で一緒に行く必要はどこにあるのだ。注文された数量も書いてない。耕作は二人の座っていた机の所まで行き、机の上に注文伝票が残っていないか確かめた。しかし、二人の机の上に注文伝票を見付けることはできなかった。
 そんなことよりも、二人の机は仕事をするための机とはとうてい思えなかった。デスクマットにはプリクラが一杯貼ってあり、この机で仕事をし、給料を貰っているとは余りにも情けなくて二人を雇っている社長の立場になって考えると同情してしまうのだった。
   
 一時を知らせる時報が壁に掛けた時計から流れてきた。そうなのだ、今はまだ一時なのだ。勤務時間終了まで四時間もある。それなのに二人は得意先に行った後、仕事を止めて帰るという。その厚かましさに腹が立ち、二人の顔を思い出すだけで胃の辺りがキリキリと痛み始めてきた。
 胃の痛みに気付いた耕作は、二人のためにこんな目に会っていると思うだけでくやしくなるので空腹のためだと思うことにした。
 事務所の隅に流し台があり、その横には冷蔵庫がある。そして冷蔵庫の上には電子レンジがあった。耕作は買ってきた弁当をその中に入れてチンをした。
 かつて、女の子に「チンして」と頼んでバカにされた事がある。「じゃあ、何て言うんだ」と少しだけムキになって尋ねると「加熱するって言います」と言い返された。
 でも、耕作は電子レンジで暖めることはやっぱり「チンする」と言い通している。妻の美智子にもそれで通じるし、子ども達にもそれで通じる。
 三分も暖めると電子レンジの正面のガラスで出来た部分が曇ってきた。耕作は「チン」と鳴る前に扉を開けた。
 積み重ねて入れた弁当は持てないくらい熱々になっていた。真ん中の弁当は適温になっていたが、一番上の弁当の容器は熱で曲がっていた。
 横にあった新聞紙に弁当を乗せ、耕作は自分の机に戻った。トンカツからは余分な油がにじみ出ていた。
 少ない小遣いで無理して三つも買っただけに、耕作は弁当を残す気にはなれなかった。無理しても食べようと決意した。
    
 熱々の弁当は食べ辛く、口の中が火傷しそうになった。
 弁当の中で一番金がかかっていると思われるトンカツを三つの弁当から取り出して弁当の蓋に乗せた。次に熱々になってしまったマカロニサラダと漬物をもう一つの弁当の蓋に乗せた。本来、冷たい状態で食べる物を暖めて食べるというのは食欲が一気に減退してくることを知った。
 目の前に並んだ三つの弁当は最高のご馳走である。三人分を一人だけで食べる。昔、クリスマスケーキを兄弟で分け会って食べた時の事を思い出した。その時、一人で全部食べられたらどんなに幸せだろうと思っていた。それ以上の幸せが目の前に広がっているのである。耕作は「ザマーみろ」と大きな声で言った。
     
 結局、御飯だけが二つ分残ってしまった。無理して食べようにも油っこいトンカツを三人分食べた後では米粒はまったくといっててて程喉を通らなかった。